ヴォヤージュ1969・ヴォヤージュ1970

今回の雑考は6面道中曲と6面ファイナルスペルのテーマです。
またいつも通りのないようですので、気楽に。


そして雑考を始める前に、まず約束事を。
今回ヴォヤージュ1969、ヴォヤージュ1970はそれぞれ1969,1970と表記することにする。




それでは思い返してみよう、ファイナルスペル(禁薬"蓬莱の薬")をはじめて拝んだ時に流れてくるのは当然のことながら1970である。
この1970を聴いた瞬間、ありえないほどの焦燥感に駆られたり、不安感を覚えさせられた記憶はないだろうか。
それは"本来あるべきモノである"と錯覚しているあるモノが呼び水となっているはずだ。
では、そのあるモノとは何かお分かりだろうか?
分かってしまった方にはさらに質問を、プレイ中にそのあるモノを探し求めたりしなかっただろうか?


前置きの質問はほどほどに、楽曲を見ていくことにする。
曲の作りの解析には1969を用いることにしてみた。
(括弧内は拍子を意味している)

ピアノイントロと16beatリズムパートのフィルイン(4/4)

一小節一発コードと複合拍子(12/16)

ブラスの主旋律と無機質なリズムとの対立(4/4)

(冒頭へ戻り以降ループ)

ピアノのイントロは8分でゆったりめに取られているのに対して、リズムパートはひたすら無機質に刻み続けるという
主旋律とリズムが剥離した構造を冒頭からとっている。
この時点で何とはなしに違和感を覚えさせられることだろうか。
それは何が待つか分からない先(例えば宇宙空間など?)へと進む時に誰しもが抱く、期待と不安と言う感情だろう。
夜一夜樂団のコメントの一部を抜き出すならば以下の部分になるだろう。

二十世紀のノアの箱舟は、期待と不安を乗せて宙を飛んだ。
だが、期待だけを月に置き忘れてしまったのだろうか。

ヴォヤージュ1969

このコメントは後々恐ろしいほどの威力を発揮するが、それはもう少し進んでから。


さて、主旋律とリズムの剥離構造を続けたまま、楽曲は一つの転換点を迎える。それは、拍子の変更である。
12/16拍子という複合拍子は、2拍子系、3拍子系、4拍子系、どれにでも感じられる要素を持っている。
(特に、2拍子系と4拍子系はテンポしだいで可換となる。速い曲は大きく2つで感じていることが多い)


直前の4/4で刻まれていたテンポを刻み続けると、それは3拍子系(3/4)となるのだが、
ここでピアノの音の動き方に着目すると16分音符3つで一つの組となっている。
つまり、3/16を一拍とした4拍子系を刻んでいることになる。
この瞬間、4拍子系として感じ続けようとすると、テンポが上がったかのように感じることだろう。
そして見かけのテンポが上がった瞬間は、上の括弧内で述べた現象が起こりやすい状況である。
テンポの分解能の都合から、この4拍子系を2拍子系と感じてしまいやすく、逆にテンポが緩んだかのような錯覚に陥ってしまうのだ。
こうなると、聞き手側が一番感じやすいリズムを感じるようになる。それは人によってまちまちだろう。


さらにここでもう一段階聞き手を惑わせる要素が出てくる。
この複合拍子ゾーンの2セット目では、スチールギターがご丁寧にも4分音符1拍とした3拍子を刻んでくれるのだ。
このことによって、リズムを強制的に3拍子系へとスイッチさせられてしまうのだ。
この瞬間、聞いている側に更なる違和感を植えつけてしまうことが起こりうるだろう。
もしくは息が詰まったかのような、えもいわれぬ圧迫感を覚えることさえあるだろうか。
(曲のモチーフが宇宙空間ならば真空であるが故の圧迫感、窒息感をイメージしているのかもしれない)
全体としてみると、この複合拍子ゾーンがこの楽曲の持つ焦燥感のようなモノを増幅していることだろう。


そして複合拍子地獄から開放された瞬間を出迎えてくれるブラスの主旋律、
これが宇宙空間での圧迫感から開放されたカタルシスを良いように演出してくれるのだ。
この楽曲が好きな方の中で、「このブラスがどこと無く気分を爽快にしてくれる、だから好き」と答えられる人も多いのではないだろうか。
それほどまでに気持ちよく抜け響きわたった音を提供してくれるのである。




1970と1969の違いと言えば、1969であるはずのピアノとブラスの主旋律をごっそりカットして
リズムパートを前面に押し出した事と、1ループ終了後にミニマルの繰り返しへ移行する事である。
(この関係は、幽雅に咲かせ、墨染めの桜〜Border of Life とボーダーオブライフの関係に似ている)
主旋律をカットしただけの安直なアレンジと思いがちであるが、逆にこれが恐ろしい効果を呼んでいるのだ。


そう、主旋律をカットしただけであるのに、逆に焦燥感のみを誘起してしまう楽曲へと変貌しているのである。
リズムパートは完全に無機質に16beat(一部12beat)を刻み続けるのだ。
この無機質な作り、単純な音型の繰り返しのみで構成された楽曲であるため、トランス効果は計り知れない。
このような音楽と共にあるのが、あの眩暈がしそうな弾幕なのだから、まさに「生きた心地がしない」のである。


さらに、この楽曲(1970)のリズムパターンはプレイヤーにとっては1969で既知となっていることも、焦燥感、不安感を増幅させるのだろう。
それは、1969でこのリズムパターンに乗る主旋律を知ってしまっているからである。


忘れていたわけではないが、冒頭で投げた問いかけの回答をしめそう。冒頭の問いの答え、それは「カットされた主旋律」である。
怒涛の無機的なリズムの渦という地獄に投じられた一本の蜘蛛の糸、それこそがピアノとブラスの主旋律なのだ。
窒息するかのような複合拍子から開放された瞬間に覚えたカタルシス、それである。


そんなカタルシスを覚えさせてくれる主旋律が見当たらない、そこにあるはずのモノが一気に消えうせた現実。
これによって、元々楽曲が有していた心への作用が共鳴、増強されることは言うまでもないだろう。
そして増幅されていく不安感をかき消したいがために、無意識に主旋律を探してしまうのだろうか。
以前「もう歌しかきこえない」という楽曲の雑考で主旋律=歌としたが、この楽曲では"もう歌しか聞こえない"のではなく、
"もう歌が聞こえない"といっても過言ではないだろう。


期待と不安、それは表裏一体の精神状態
不安に押しつぶされそうな精神を支えてくれる主旋律、それを1970は欠いている。
1969が期待と不安を混在させた楽曲ならば、1970は不安のみが支配する楽曲であろう。
この編曲によって"不安と焦燥感のみが渦巻く漆黒の宇宙"を想起してならない。


P.S:そういえば、ヴォヤージュっていうヒーリングのコンピレーションCDがありましたねぇ
  タイトルについてはそのCDを意識した、というシャレも大いにありえそうですが……さて?