東方書譜の漬物の項目

上海アリス幻樂団の日記、東方書譜にまたしても興味深い項目が
こちらでも取り上げられていたので、早速雑考をしてみることに
結果、大本や上のリンク元ともまったく異質な内容になってしまいました(核爆)




書譜では、自己の成長とともに他者の人間も成長する、ということを冒頭に書いている
人間とは、絶えず自分以外の存在・環境などから影響を受け、絶えず変化する存在、という考えである
(先日(id:rev-uhv2:20040805)書いた香霖堂の雑感文章と図らずも一致してしまったようだが……う〜む)
そして、創作をするものが人間である以上、その創作物も変化するという旨である
その変化を理解するということは楽しいことであると同時に、さまざまな困難をもたらすのだろう



人間が物事を理解しようとする場合に用いる手段として、"限定による束縛条件の付与"がある
荒っぽい表現ならば理解しやすく部分的に切り出したり、フィルターをかけるということになるのかもしれない
そしてこれらは日記では蓋という表現に対応するのだろう


限定をかけることを有効に利用した例として、剣道の修行法を挙げてみる
まずは基本的な打ち込みを修練するのだが、相手はもちろん反撃してこない
その次に打ち合いを行うが、攻防に限定をかけて行う(攻守の指定、打突部位の限定など)
そして実際に乱捕りという形をとるのである


そう、理解しやすくするために条件を設定しているとみれないだろうか?
条件を厳しく限定してやることで、とっさに判断するべき項目を自動的に絞ることになる
よって初心者でもきちんとした対応を修練できるのだろう
そして徐々に限定を緩め、実際の形式へと移行していくのである


それはなにも武道の修行や、物理学など科学的な問題に限った話ではない
人間が物事を理解しようとした時に、無意識的にこのような処理を行っているのである
一つの世界を見ているときに、そこには必ず何かしらのフィルター掛け、束縛条件の付与をしているのだろう


このようなフィルターを掛ける操作は誰しもが行う行為である
ここで、創作物にフィルターを掛けるということは"作品本来の持つ描像を鈍らせる"ということであろう
理解しやすくするために、本来存在しなかった条件を付与するのである
当然その描像は歪められ、本来もつ要素がぼやかされることになるのだろう


そして、創作をする際にどうしてもフィルターを掛けなければいけない瞬間が存在してしまうのだろう
最高の作品を出す……最高の演奏をする……最高の料理を作る……自分以外の相手を視野に捉えた時、
相手がどう捉えるかを考えてしまう。そしてその過程で様々なフィルターを掛けるのである。
そしてより良い(しかし最高ではない)ものを見つけようとするのである


時にこのフィルター掛けという作業は、自らの感覚をも麻痺させてしまうことさえあるだろう
そして、フィルターがあって当然という思考にいたるのである
限定条件では理解しやすい、それゆえに理解しにくいことを敬遠したり、無視したりしてしまうのである
恋は盲目という単語があるが、それはまさに恋というフィルターごしに見える世界を当然として認識した状態と言えようか




創作にあっては、フィルターによって歪められた描像に満足してしまうか否かが肝要なのかもしれない
創作者側の問題では、制限なく自己を前面に押し出した作品が理解されにくいという事実がある
フィルター越しに作られ、真の姿に直接触れる事が出来ないものは理解しやすい反面、真実を楽しめないのかもしれず、
フィルターや制限が一切なく作られたものは、真実は見えるものの理解しにくい
(「お前ら俺の歌を聴けぇ!」ぐらいの突き放したスタンスは個人的に大好きだったり)


そして、フィルター掛けられて見えない世界があるにもかかわらず、それで満足してしまうというのはなんとも悲しいものである
受動的にしか物事を捉えず、そして現状に甘んじてしまう……自己研鑽を怠ってしまうのである
そしてそれが意味するところには、永夜抄で使い魔が見えない(むしろ見てない)妖怪のメンバーの仲間入り、ということなのかもしれない
様々な事象に翻弄されつつも、そのなかで変化を続けてこそ人間たりえるのだろう



フィルターがけされた世界で満足するか、それとも自らフィルターを改善していくか……それが妖怪と人間の境界なのかもしれない
自分は、やっぱり人間として創作をしていきたい
理由は………創作物は生ものだから、そして自分も人間という生ものだから
でもそれはどちらかと言うとであって、偏る必要はないと思っている
自分はむしろ赤ん坊のように純粋に創作を、創作物を楽しんでいきたい


しかし、創作において自分の尖らせるべき武器が見つかりつつも、その力を信じきれない今日この頃(大汗)