心の余裕と弾幕ごっこ

最近自分の心に平静さが足りないことを感じることが多くなった。
そういえば霊夢を始めとする幻想郷のメンバーは、精神的にゆとりの多い印象を受ける。
それは何故だろうか?という所から出発したのが今回の雑考だったりする。


如何なる状況におかれても対応できる、という心のゆとりは漠然とした自信からくる物ではないだろう。
過去の経験、体験をもとに自分のキャパシティを知っており、そのキャパシティの範囲内での応対が可能である、と判断することによって生まれる。
しかし、自らのキャパシティの範囲や想定した状況を超えた状況に置かれた時、
人は初めて焦りという物を感じる。
突如"○○について自分の意見を述べよ"と指名され、言いたいことを的確に切り返せなかった
このような経験は無いだろうか?
予期せぬ事態や未知の現象に対応する際に、自らの実力を発揮しきれることはそう多くないだろう。


さて話題が変わるが、幻想郷に住まう彼女たちにとって、弾幕ごっことはどのような位置付けなのだろうか?
本人たちの意見は聞けないので自分の推測をあげてみる。


弾幕ごっこは武道で言うところの演武のような物であり、弾幕ごっこを通じて無意識のうちに精神鍛錬も行っている。


武道の武の字は本来"矛(ほこ)を止める"という意味合いから来ている。
つまり、争いを抑えるための手段・力なのである。
そして武道を修める者は、その力を争いを抑える時にのみ行使することが必須となり、
その争いを抑えるための力を日々の修練によって養うのである。


そして、その修練の一つに演武、というものが存在する。
大雑把な表現でいけば、武の力を実際の状況を想定した形で再現し
攻防の対応を修練するという物である。
ある程度の形はあるものの、その攻防には虚である部分は一切無く
実際に行使した場合にキチンと抑止力となりうるものである。
その自分のもつ力を行使した場合にどのような効果を得るか、それを把握することによって
相手に無用な障害を負わせることの無いよう"手加減"することが出来るようになる。
また、その様な状況を経験することによって、精神的な修行も兼ねることが出来る。


さて、それを彼女たちの弾幕ごっこに当てはめてみる。
お互いに交わされあう弾幕は、当たればどうなるといった様な抑止力を有している。
その力の大きさを各人が知っているからこそ、行使する力に制限をかけ
弾幕ごっこというスタイルに投影することが出来るのだろうか。


そして、自分を良く知り、そして制限された条件で交わされる弾幕だからこそ
弾幕ごっこにおける平常心(特に霊夢が特筆すべきキャラクターかもしれない)が生じるのかもしれない。
それはやはり、己が持つ抑止力を的確に把握し、いかに様々な経験を得ているかというものに集約されるのかもしれない。
(その点でチルノは経験が浅く、スペル構成の組み立てが妙なのかもしれない。)


……心の余裕を生み出すには、経験を積むことと己を知ることから始まるのかもしれない。
そして予期される状況を漏らさず把握し、油断をしないこと……
それは弾幕ごっこも同じ………?