写像と東方

また上海アリス幻樂団の日記より雑考を


写像とは以下のような定義が出来る。(はてなダイアリーのキーワードより引用)

f:X→Y が集合Xから集合Yへの写像(mapping)であるとは、
集合のX要素が任意に与えられたとき、fによって集合Yの要素が
ひとつ対応づけられていることである。
Xをfの定義域(domain)、 Yをfの終域(値域)という.

決められた自由度(=定義域)の中で、何かしらの操作を与える(=写像)ことによってそれぞれに結果(=値域)を返す、これはゲームでも当てはまる。
ただ、ゲームの場合にはこの値域と写像のどちらかが未知の情報であり、
それを模索することを楽しみとするのである。
 

 -値域が未知の場合
これは元から制限が与えられた行動様式の中で、如何にして良い解を得るか、ということになる。
ゲームとしてはテトリスが良い例かもしれない。
(ブロックを回転・落下させ、横一列がそろえば消滅。降りしきるブロックだけでいかにしてハイスコアを狙うか)
 -写像が未知の場合
こちらは求めるべき解が(少なくとも)一つある状態で、手持ちの自由度から何を選び出し如何にして求める解を導くかを考える、ということを行う。
これは東方書譜にもある通りゼルダが好例になるのだろう。



未知な写像を既知とし、理解できる形で表現するには、まず写像に定義域に存在する要素を代入し、
結果を確認しなければならない。これはまさしく実験である。
一方、既知の写像を用いてある一つの結果を得るためには既知の定義域から必要な要素の組み合わせを選ぶ必要がある。


東方はもしかしたら本来写像も値域も未知なのかもしれない。


永夜抄なり萃夢想なり香霖堂といったような一つの仮想的な値域をおくことで、それぞれに必要な写像を模索していくということにはならないだろうか。
そして写像を模索するに当たって、それが適当な物であるかどうかを"実験"し、評価する。
これは以前の"これまでの作品は東方の2次創作"という概念に合致していくのではないだろうか。


しかし、東方を楽しむという観点で捕らえると、そこには自由度が高いひとつの写像系(二次創作作品)が示されているとみなせる。
(もちろんその写像は、先ほどあげた仮想的な値域を最低限満たす写像である)
そこに東方を楽しむ者(プレイヤー)が様々な変数・要素を代入し、打ち込んだ要素に対応して千変万化する世界を楽しむ……。
これこそが東方世界を示す真の姿ではないだろうか。


その後、最初に定義した仮想的な値域を変容させることによって、新たな写像を模索できる。
(与えられた写像は、もともとその仮想的な値域にのみ合致する特殊な例とみなせるからだ)
この繰り返しを行うことで種々の値域と種々の定義域が結ばれていくのである。
この積み重ねによって体系的な写像("東方"自身の創作)を求めることがはじめて可能となるのだろう。


となれば、その作業を行うのはごく限られた範囲に限定されるべきではないのかもしれない。
写像の一般性を見出すには境界条件を取り払う必要があるのだろう。
また、その範囲の拡大によって写像を求めるやり方が異なってくる。
それは人それぞれに得手・不得手という形であらわれるのだろう。


そこで二次創作者がそれぞれの手法で東方に関連する写像を提示し、お互いの持つイメージを交換する事が大事となってくるのだろうか。
また作品を介して作り手と受け手の対話が活発に行われることで、受け手も(間接的にではあるにせよ)創作に関わることが出来るのではないか。