境界

今回は八雲紫の能力にもある"境界"をネタにしてみようと思う。


そもそも境界とは「ものともの、領域と領域などとの境目のこと」というごくありふれた定義付けられている。
人間はその境目をもってして、ある物事がとある領域に属する条件に合うか否かを判定し、物事を識別している。
そうして一度識別したものをあるカテゴリーの中へとくくりつける事によって、以後の処理を簡略化し効率よく認識することができる。


そしてこの境界を操るという事は、対象となる境界領域を与える定義・基準を操るという事に他ならないだろう。
しかし、このことは各人が意識的あるいは無意識のうちに行っている行為でもある。
八雲紫が境界を操る能力を有しているように、各人それぞれが境界を操る能力を有しているのである。


そうすると妖怪・八雲紫が何者であるか、という疑問が浮かぶ。
彼女はありとあらゆる境界を操る程度の能力を持っている。これだけなら認識を行う者誰しもが持つ能力である。
では、彼女が境界を操る者として認識される最大の要因は何だろうか?
それは、「ある境界を他者の認識できる形に変換する能力を持つ」ということではないだろうか。
あるものの持っている定義・基準を具現化し、他者に対して否応なく認識させる能力。
その能力の最たる形があの弾幕・スペルカードと見ることができるかもしれない。


ここで、"境界"を通じて色々なネタについてちょっと考えてみる。まずは幻想郷と大結界について。
ある物が人間界に幻想郷が不要だという認識を抱いたことによって、幻想郷を人間界と別のカテゴリーとして扱おうとした。
しかし、幻想郷と人間界を分離して扱うための何かが必要となった。そこで登場するのが博麗大結界である。
そこで博麗神社に博麗大結界というだれしもが認識できる形を用意することで、
人間界とは隔絶された"幻想郷"というものを理解可能なものにしたのではないだろうか。
(大結界構築の際に、八雲紫も何かしら関与していてもおかしくないように思われるが………)


次に妖々夢を通じて。
妖々夢には色々な対比構造が見え隠れするのはもう気がついている事だろう(冬と春、身体と霊魂、主人と式)。
対比構造が存在する、という事はそこには2者を分ける境界が存在する、ということに他ならない。
そして対比構造の存在によって、それぞれ単独では感じえなかった違い、変化を楽しむことができるのであろう。


ここまでくると境界というものが何であるのか、微妙に分からなくなってきている。
それも当然である、境界という物はえてして可変で、唯一の形におさまる物ではないのだから。



(今回も無駄に長いし、まとまりがないや……(ぉ))